色の名前

 筆に絵の具を含ませ、まっさらなキャンパスに走らせる。適度に水分を含んだ絵の具は、存在を誇示するように鮮やかにキャンパスの上に軌跡を残した。色は、深い緑。
 そのまま同じ色で、次々にキャンパスを埋めていった。右に、左に、上に、下に。縦横無尽に緑が咲いていく。やがてその線は集合して四肢を形成し、そこでようやく筆を休めて傍らの水入れで緑色をゆすいだ。
 続いて、明るい黄緑。筋を描くように、ゆっくりと、慎重に。形成された四肢に、細かな模様が描かれていく。
 何を描いているのか、と聞かれても、花京院はきっと答えないだろう。周りの理解は絶対に得られないとわかっているからだ。キャンパスの上には、粗削りながらも絶対の存在感を持つ“何か”がいた。
 絵心がないわけではない。ただその対象があまりに朧で、彼自身が描写するには霞をつかむ様なものだったからだ。昔からあまりにも一緒にい過ぎて、その“姿”を認識するよりも前にその“存在”を受け入れていた。
 ハイエロファントグリーン。彼にしか見えない、彼と共に立つ者だ。
 ほんの小さなころ、母に一度彼のことを話したことがあった。すると母は半ば悲鳴のように言った。

『馬鹿なことをいうんじゃありません! そんなものはいないのよ、典明』

 そんなことはない。彼はずっと、僕の近くにいるんだ。確かに、いるんだ――どれだけ言っても、信じてもらえなかった。逆に、不気味なものでも見たかのような視線を向けられた。それから、幼い花京院は一度も彼のことを口にしなくなった。母もやがてこのことを忘れ、花京院をなんら変わりなく愛し続けた。
 けれど、花京院はそのとき以来自らを閉ざしてしまった。彼と二人きりの世界に閉じこもってしまったのだ。自分は、周りとは違う――そう考え、周りと自分とを遮断した。
 もちろん、ある程度人とかかわりはする。それは生活に必要なことだからだ。世界は人が歯車のように噛み合って動いている。自らもその一員にならねば、社会の中で動くことままならないのだ。けれど、決して己の内を晒すようなことはなかったし、周りを信頼することなんてなかった。
 鮮やかな緑。青。赤――様々な色を混ぜ合わせ、キャンパスを染め上げていく。モデルであるハイエロファントグリーンは、じいっと花京院の隣にたたずんでいた。彼を横目に花京院はキャンパスを染め続ける。
 西日の射す薄暗い美術室。その空間の中でも、花京院の描く絵はひたすら異質だった。
 不意に、がらりと部室の扉が開く。顔をのぞかせたのは美術部の部長だった。彼が驚いた顔をしたのは、花京院が普段「美術部員」とは名ばかりの幽霊部員だからだ。

「花京院、まだ残っていたのか。珍しいな、お前がいるなんて……それに、今日は活動日じゃないぞ?」
「ええ、少し絵が描きたくなって、顧問の先生に鍵をお借りしたんです」
「そうか。ふーん……」

 部長は興味深げに花京院へと近寄ってきた。見えていないとわかっていながら、花京院はハイエロファントグリーンをひっこめる。部長は今までハイエロファントグリーンがいた場所に立つと、花京院の絵を覗き込んだ。とたん、何とも言えないような微妙な顔をする。だが、すぐにそれを引っ込めて花京院のほうに顔を向けた。

「何か……すごい絵だな。芸術的というか、前衛的というか……一体何を描いているんだ?」
「何、というのはないんですけど……思い浮かんだままに描いているだけですよ」

 言っている間にも、部長を無視して筆を走らせ続ける。緑と青が混じって色を濃くする。乾ききらぬ色に赤がまざって、淀みを生み出す。それが何だったのか、元々何を思って描いていたのか、すでに原型をとどめないほどぐしゃぐしゃになっている。
 色は、花京院の心と比例していた。他人は信用できない。近寄られるだけで、これほど心をかき乱されるのだ。まるで、大事な部分を踏みにじられたような心地だった。
 筆は激しさを増していく。色と色とが混じり合う。白が埋まる。色の混じりは濁りを生じる。花京院はにこりともせず、無表情のままだ。
 その様子を見ていた部長は、知らず顔を引きつらせていた。すっと身を引き、引きつった笑みを花京院に向ける。彼は居づらそうに小さく身じろぎした後、踵を返した。

「あ、おれ、邪魔だったな。悪い、邪魔して……じゃあ、頑張ってくれ。戸じまりは忘れるなよ」
「はい。お疲れ様です」

 絵は、すでに何が何なのかわからなくなっていた。子供の落書き、といえば通用するだろう無計画な色使いだ。

「君はどう思う?」

 花京院は絵を指し、再び現れたハイエロファントグリーンに問いかけた。彼は何も答えない。話せるほど知能のレベルが高くないのか、それともただ単に無口なだけなのか。それを知るすべはないが、彼が絵を見ていることだけはわかった。
 西日も、もう低い。長くなる影に、夕暮れも終わりかけて迫る夜気を感じ、花京院はてきぱきと片付けを始めた。キャンパスをイーゼルから下ろして、絵筆をゆすぐ。混じって混じって混じりきった色は、水をも淀ませて底を見えなくする――それを無表情に見下ろしながら、手だけは動かし続けた。
 蛇口から流れる清水に混じり、次第に淀みを薄くしていく色水。やがては色をすべて流し切り、いくら絵筆を水にさらしても色がにじみ出ることはない。

――いつかは、ぼくもこうなることができるのだろうか。

 ふとそう思って、すぐに首を振って否定した。そんなこと、あるわけがないんだ……自分に言い聞かせるように、心の中でそう反芻する。
 いつの間にか日はすっかり沈み、美術室の中は冷たい夜気に満たされていた。



「花京院? おい……どうした?」

 仲間の声に、花京院ははっとして顔を上げた。承太郎が眉根に少し皺を寄せている。
ここはどこだろう――美術室の中でないのはたしかだ。いつの間にか、物思いにふけってしまっていたらしい。旅路のさなかに立ち寄った町でとったホテルの室内で、皆で膝を突き合わせて食事をしている最中だった。

「いや、なんでもない。少し、ボーッとしてしまって」
「おいおい、しっかりしろよ。疲れてんのかァ?」
「いや、疲れているとかじゃあありませんよ。あ、承太郎。君のチェリー、貰ってもいいかい?」
「……ああ」
「サンキュー」
 
 花京院は話を濁すように承太郎の皿に残っていた添え物のチェリーをつまみあげ、舌に乗せた。そのまま小器用に赤い球体を舌の上で転がして味わう。承太郎が嫌そうな顔をしていたが、気にしなかった。

 ――昔を思い出して、そこに今の自分を重ねてみた。

 淀み、孤独に狂っていたかつての自分。共に旅をする仲間を得て、信頼することを覚えた自分。ハイエロファント・グリーンは今でも一緒にいるし、それと同時に承太郎もジョセフもポルナレフもアヴドゥルも一緒にいる。机の下には、コーヒーのガムを噛むイギー。自分の周りに親しい人がいるなど、昔では考えられもしなかったことだ。
 あの日、ハイエロファントグリーンを描いていた……つもりのキャンパスを思い描いてみる。特に意識していたわけでもなかったので、細かに思い出すことはできなかった。
 ただ、あの淀み汚れた絵筆だけはやけに鮮明に覚えていた。
 
 同じ目的を持つ仲間に触れ、自分はきっとあの絵筆のように透明に近づいているだろう。かつて心を満たしていた濁った色は薄まって、自然に笑うことも出来るようになった。彼らのためならば、命を捨てる覚悟すらある。
 と、視界にひらひらと映るものがあった。ポルナレフの手だ。塔のようにつっ立てた銀髪が、その指の向こうで見え隠れしている。

「花京院、オイ、花京院! お前、やっぱり変じゃねえか?」
「そんなことないですよ、ポルナレフ。ぼくだって人間なんですから、少しボーッとするくらいいいじゃあありませんか」
「そうじゃぞ、ポルナレフ。あまり突っかかってやるな」
「お前は少し、首を突っ込みすぎる」
「ジョースターさんに、アヴドゥルまでそーいうこと言うかァ!? 心配してやってんのによぉ!」

 ポルナレフが椅子を蹴って、ずんずんと部屋を出て行ってしまった。
 ジョセフがいたずら坊主のように笑って、「やれやれじゃ」と言う。先手を取られ口癖を横取りされた承太郎は不機嫌そうにジョセフをじろりとねめつけ、アヴドゥルは特に気にせず食事を続けていた。
 舌の上で転がしていたチェリーを飲み込み、花京院は微笑んだ。いつまでも終わらなければいい――心からそう思える、穏やかで楽しい時間。

「何をにやにやしているんだ、気色の悪い」
「何でもありませんよ。何でも……」

 承太郎の横からの突っ込みに軽く返して、花京院は食卓を囲む仲間――一名はたった今機嫌を損ねて出て行ってしまったが――を目だけで見回した。
 同じ目的。能力。交わされる言葉。
 ここが、ぼくの居場所なんだ。

2009.8