受胎

 わたしは、自分の目を疑った。営業先で宿泊した、そこそこ上等なホテルの室内――余談だけれど、会社の経費で出ているので贅沢ほうだいだ――には、私しかいないはずだった。合鍵だって、私が持っているもの以外はフロントにあるし、ボーイが来た覚えだってない。
 なにより、こんなおかしな格好をしたボーイなんているはずがない。くるくると、なにか赤いものが入った小瓶を電灯にかざして眺めている。その中身が血のように見えて、不気味だ。

「お嬢さん……少し、お聞きしたいんだが」
「お聞きしたいって、き、聞きたいのはこっちのほうよ! 何よあなた、一体どこから入って来たっていうの!」
「……質問は一つずつにしてほしいな。まぁ、オレに答える『義理』なんてものはないから、答えないけどね。オレの質問には答えてもらうぜ」

 目の前の上等そうな革張りのソファに、堂々と我が物顔で足を組んで座っている男。理不尽かつ横柄な彼の態度と言動に腹が立ったが、わたしはそれ以上に恐怖を感じてそれ以上を問い詰められずにいた。
 男は、不自然なほど非対称に切り揃えられたブロンドを掻きあげて、膝の上の大きなパソコンのような機械をいじっている。その服装は異様なもので、目元は毒々しい色のマスクで覆われ服は黒、胸部分と腹部分を切り取った、露出の高いものだ。わたしにはこのセンスを理解するすべはなかった。
 じろ、と男の緑色の目がこちらに向く。思わず身を縮めるが、男はそんなの関係ないとでも言うようにがちゃがちゃとパソコンのキーを押し始めた。

「調べたとこによると、キミは1977年9月14日生まれ22歳、乙女座。『イイ』ね……ベリッシモ……いい年齢だ。名前は……まぁ、どうでもいい」

 男の手には、いつの間にか私の免許証が握られている。カバンを漁られたらしい。信じられない! わたしはあわてて男の手から免許証を奪い返そうとしたが、恐怖でコチコチになった体は思ったように動かなかった。
 次に、男はパソコンを脇に置くとゆっくりと立ち上がった。

「次に、君……健康状態は、良好ですか?」
「は、ハァッ!? な、何なのよ一体! 警察呼ぶわよ!」
「おれは聞いてるんだ。二度聞くのは好きじゃないが……もう一回聞くよ。『健康状態は、良好ですか?』」

 男はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。私は腰が抜けてしまって、ろくに立てず床を這うように後退するしかない。何とか、何とかしなければ……。
 男のひょろりとした体が目の前まで迫ったとき、不意に腕に痛みが走った。いつの間に落ちたのか、ひっくり返った化粧品ポーチの中の剃刀が露出していた。それを手でふんずけてしまったらしい。ひやっと背筋に寒気が走るが、これほどいい武器はない。わたしは剃刀を手に取ると、迫ってくる男に向かって突きつけた。ぱたぱた、と血が滴になってカーペットに垂れた。
 睨みつけるわたしに対し、男はへらへらと笑うばかりだ。
 急激に、殺意がわいてきた。今腰が抜けていなければ、この男の頸動脈を切り裂いてやるのに――剃刀の刃が男の首の皮を裂き、肉を斬り、その奥の血管を両断する場面が鮮明に浮かぶ。

「これ以上来ないで! き、切るわよ……本気だから」
「ンー……いいね、その威勢! ディ・モールト……イイ! オレを『殺してやるッ!』てのがビシビシ伝わってくる!」
「いつまでも……ふざけたこと、言ってんじゃあないわよ!」

 力いっぱい剃刀を振りかぶったその手は、あっさりと男に止められてしまった。ぎり、と手首が力をこめて握り込められる。手から剃刀が落ち、また血がぱたぱたと落ちる。
 もがいても、男の力には到底かなわなかった。

「放しなさいよ! 放せ、放せっ……!」
「怪我をしてるじゃあないか! これはこれは……」

 男が、ぐっと傷口へと顔を寄せてくる。生暖かい息がかかって、怖気がたつほど気持ち悪い。手は、男の力によって固定されてひっこめられない。手近な武器もない。自由な左手だけを、わたしはぎゅっと握りしめた。
 次の瞬間。あろうことか、男の舌が傷口へと伸びて流れる血を舐めとった。凄まじい嫌悪感が体中を駆けまわる。頭が真っ白になり、何かを考える前に左手が男に向かって飛んでいた。確かな手ごたえが、左拳にあった。

「……イイね。いいストレートだ! 少し、キいたよ。 けれど、これだけのパンチを繰り出せるなら君の健康状態は間違いなく『良好』だ!」

 嬉しそうに言った後、ぱっと男の手が離れた。わたしは脱力し、へなへなと壁へともたれかかる。男はそのままソファへと戻って腰掛け、またがちゃがちゃとパソコンをいじりはじめた。

「……健康状態……良好っと。そして、さっきの血液の味から察するに、血液型はB型。だろ!?」
 
 当たっている。わたしが何も答えずにいると、男はそれを肯定と取ってかそれを入力した。血の味を確認するためか、小さく口をもぐもぐと動かしている。

「血液型……B型。ンー……どうも、麻薬はやっていないらしいな。煙草も、吸わない。ベリッシモ残念だ」
「な、なんで……」
「何でわかるかって? 見れば分かるさ、オレにはね。……煙草も麻薬もやらないが、君は酒は飲むらしいな。だが少量――母体としては、最高とは言い難い」
「さっきから、なんの話をしてるのよ……」
「失礼。こちらの話だ。……今回の標的は11月5日生まれのさそり座。占いによれば、乙女座との相性は最悪。それに加え先ほどの爆発的な激しい『殺意』! この点を見れば……ものスゴク最高に、ディ・モールトいいよ、君! それで、次だが」
「いっ、いい加減にしなさいよ! さっきから……」

 わたしの言葉を遮り、パソコン画面が目の前に突き出された。

「な……何なのよ、これ! 一体――」
「少し黙って聞いてくれ……。これからが特に重要なことなんだ」

 言われたとおりに黙ると、男は満足げにうなずいた。

「ものごとを始める時には、何事も楽しくなけりゃあならない。そうだろ? 君が嫌なのは、スゴクいけないことだ……というわけで、この中から君の好みの『仕方』を選んでくれ。君の選んだ通り、ことは進むから」
「仕方って……そんな、いやに決まってるじゃない!」

 画面の中には、ずらっと「二人の人間が向きあい、キスをする」場面が並んでいた。数えるには指が足りないほど、種類が多い。これから何をされるのか、大体予測がついてきた。私が手を伸ばせないでいると、男の手が私の手をがしっと掴んだ。そのまま、わたしの手もろとも画面を触れるすれすれまで持ってくる。ぐっと、息がかかるほどに寄せられた男の顔は端正だったが、魅力以上にどこか気味の悪いものがあった。

「さあ、選ぶんだ。時間がない……大丈夫、何も怖いことはないから」
「そん……な……うぅっ」

 ためらってみせながら、わたしはこっそりとフロントへと繋がる内線へと手を伸ばしていた。今は扉を開ける手段はない。これがわたしに残された、最後の逃走手段なのだ。内線をプッシュする。かすかなコール音の次に、フロント係の男の声が聞こえた。

『どうかされましたか、お客様』
「助けて! わたしの部屋に、わけのわからない変態が――」

 瞬間、電話はぐしゃぐしゃになって吹き飛んだ。男が、すっと立ち上がる。

「やれやれ……だが、その根性、生への執着。イイよ、実にイイ……けれど君にその点に関しての選択権はないんだよ。さぁ、選ぶんだ。早い所、終わらせたいんでね」

 わたしは震える指で、適当な数字を押した。次に現れる画面は――その次も――またその次も――思い出したくもないような、性的倒錯者がさらに狂った人が作ったような、異常なものだった。

「ねえ、もういいでしょう!? さっきから黙っていれば、あんな恥ずかしいことばっかり……」
「それは悪いことをした。けれど、これでもう終わりだ。本当の本当に終わりだから、安心してくれてもいい」
「えっ……」

 そう言うと、男は今までのしつこさが嘘のようにあっさりと立ち上がった。アンバランスなブロンドが揺れる。ここまでやっておいて「安心しろ」とは――言葉を尽くして変態を罵ってもよかったが、わたしが次に行動を起こすより、男が動く方が早かった。

「さあ、行くんだベイビィ・フェイス! 母の愛をたっぷり受けて育つといい……」



「ギアッチョ、終わったよ。今からそっちに向かう」
『そーか。順調のようでよかったぜェ。だが、今回のターゲット……一筋縄じゃあいかねーようだ。大丈夫そうか?』
「ああ。最高の母体を手に入れたからな。きっと、いい子に育ってくれるさ……最高の殺人鬼にね」
『ケッ、相変わらず狂ってやがる』
「褒めてくれて、嬉しいよ」
『誰もほめてねーっつの、クソが! とにかく、一旦切るぜ。長電話して電波キャッチされたらたまんねーからな。これからオレはソルベたちと合流する。こっちに着いたら連絡しやがれ』

 メローネはぶつりと一方的に切れた電話をしまいこみ、パソコンのキーを押して画面を見た。真っ暗な画面は夜の街明かりを反射して、てらてらとどこか妖しい光を返す。
 止まったバイクの上で、メローネは可愛い“愛息子”の画面を撫でた。ベイビィ・フェイス。母体をよりしろとした、特殊な遠隔操作スタンドだ。今“息子”は、母となる女性の中にいる。そして、誕生の瞬間をじいっと待っているのだ。
 画面に、文字が現れた。メローネが目をみはる。黒い画面の中、その文字はやけに明るく、福音のように彼の目に映った。


――受胎しました。

2010.11