距離

  神奈川から見滝原までは、決して近い訳ではない。かといって遠くもなく、適正な距離を表すとしたら「程々」である。しかし県境を幾つか跨ぐだけあって、電車の乗り換え回数は多かった。
 見滝原は神奈川とは一風変わった街並みが壮観な都市である。合宿で訪れて以降何度か足を踏み入れているそこは、何度見ても新鮮な印象を与えてくれる――初夏の風を孕んだ空気を受けながら、柳蓮二はうず高くそびえる建物を見上げた。


「――もう。来るなら来るって言ってくれれば、もっとちゃんと準備したのに」

 マンションの一室。広いリビングの中心に据えられたテーブルの向かいで、さも不服気という様子を装うのは、この部屋の主――巴マミだ。プライベートな時間であるにも関わらずその髪は丁寧に巻かれ、部屋着というには洒落た衣服を纏っている。卓上にはソーサーに乗せられたティーカップ、並べられた同じシリーズの皿の上にはケーキが一切れ。突然の来客を持て成すには十分すぎる程だ。
 柳は悪びれた様子もなくマミを正面から見返し、出されたティーカップに指を掛けた。

「気にするな。いきなり押し掛けたのはこちらだからな」
「気にするわよ。せっかく遠くから来てくれたんだもの……柳くん」

 マミが悩ましげに頬に手を添え、小さく息を零した。柳は首を振って「お構いなく」と言外に次げると、ティーカップを口許へ運ぶ。なみなみと注がれた琥珀色の液体。昇り立つような華やかな香りが鼻腔を擽る。流石だな、と柳は感心した。知識のみで、紅茶にはさほど明るい訳ではないが――。

「良い香りだな。相変わらず、良い腕をしている」
「あ、ありがとう……じゃなくて!」

 柳が話題を逸らそうとしたのは失敗に終わったらしい。未だ湯気を立てる紅茶を口に含み、じわりと熱と風味が広がるのを味わってからゆっくり飲み下した。
 目の前の彼女、巴マミは、どうしても柳がこの部屋を突然訪ねた理由を知りたいらしい。
 ――大した理由などないのだがな。
 こうは思うが、これをこのまま告げたら、さも「お前に会うためだけに来たのだ」と告げるようでどうにもみっともない。答えを幾通りか弾き出して小さく息を吐くと、口許のティーカップから立ち上る湯気が歪むように揺れた。

「巴……大切なのは、『俺がここに来た理由』ではなく『こうして卓を囲んでいる事実』だと思うのだが」
「そ、れは……そうだけれど。本当にあなたって、はぐらかすのが上手いのね」

 マミが繊細な造りの陶磁器の縁を撫でる。褒めているようでいて、半分呆れたような言葉。それを喜ぶでもなく怒るでもなくただ受け止め、「はぐらかしている訳でないがな」と曖昧な返事を投げて渡した。
 昼食が終わった午睡の時間、夕食にはまだ早い。茶請けに出されたケーキは、そんな時間によく合う軽やかさと甘さを持っていた。柳は甘いものが特段好きな訳ではない。しかしこの時マミに出された抹茶とマスカルポーネのケーキは、食欲をそそるには十分な華美さを持って皿の上に鎮座していた。

「このケーキはお前が焼いたのか?」

 柳が尋ねると、マミはちょっと照れくさそうに浅く首肯する。

「ええ。お菓子を作ったりするのが好きなのはあなたも知ってるでしょうけど……丁度、美味しそうなレシピを思いついたから」
「なるほど、確かに美味そうだ。抹茶とチーズの組み合わせは未知だが……」
「抹茶に合うように少し甘みを控えて、ほろ苦く仕上げてあるの。お口に合えばいいんだけど」

 皿に添えられていたやや小さめのデザートフォークをゆっくり刺すと、ほろりとまるで積もりたての綿雪のようにスポンジが切れる。かといって形が崩れる訳ではなく、実に良い具合にフォーク上で形を保っていた。
 ゆっくりとケーキを口に運ぶ。マミはその様子を、どこか心配そうに、確かな期待を込めて、じっと見ていた。
 口内に香る抹茶の芳ばしい苦みと、さわやかな香り。一瞬後にそれを追って、程よく広がる控えめなクリームの甘み。マミが視線に期待を込めるのも当然だと思った。自信作なのだろう。

「……美味いな」
「本当? 良かった、柳くんの口に合うようにって……あ……」

 マミが慌てて口許を覆った。
 ――「俺の口に合うように作ったのか」と尋ね返す事は容易だが、それにより彼女が目に見えて取り乱す事は容易に想像できる。現に、両手で覆われた下の頬は心なしか紅潮しているように見えた。
そして、柳は気付く。彼女の頬に、小さな切り傷がある事に。柳が「巴」と呼ぶと、マミは咳払いをして取り繕い、首を傾げて「何かしら」と答えた。

「頬に切り傷があるようだが。珍しい個所を怪我するな」
「え? あ……あら、嫌だ。よりにもよって顔に傷が残ってるなんて。ちょっと確かめて来るわね」

 今度は片手で頬を覆うようにして、マミは慌ててその場を立ってキッチンへと入って行った。
 転んだのか、とは敢えて聞かなかった。転んだにしては傷が少なく、擦り傷の類は見られない。それに、柳にはその原因が直感的に分かっていたからだ。

 ――魔法少女。

 かつて柳が魔女の結界に迷い込んだ時にマミが武器を携え助けてくれた時のように、きっと彼女は今でも魔女と戦い、人を助けているのだろう。決して楽な事ではないはずだ。普通の平凡な人生を捨て、戦いと共に生きて行かなければいけない。部活動としてのテニスとは違い、それは一生、まるで影のように付き纏う。マミはそれを「使命」と呼んだ。
また一切れ、ケーキを口に運ぶ。繊細で複雑な味わいを楽しむ反面、脳裏にはマミと出会ってからの出来事が走馬灯のように反芻されていた。
 ふと、視界の隅に白いシーツがはためいたかのように感じた。
 そちらへ目を向けると、そこにはシーツではなく、猫とも兎とも形容しがたい生物が一匹座って、その体程もある大きな白い尻尾を振ってこちらを見ていた。
 こいつは何度か見た事がある。マミの普段の振る舞いを見るに、きっと柳に見えてはいけないものなのだろうと思って無視してきた。この生物の赤い目は、物言わず柳をじっと捉えている。機微に聡い柳とはいえ無表情のそこから感情を読み取る事はままならないが、決して客人を歓迎している訳ではないのだろう。

「お前はいつもここに居るな。ペットか」

 生物は答えない。ただじっとこちらを見ている。

「動物が喋る訳がないか。……どの動物図鑑にも載っていない見てくれだ、巴の力に何か関係があるかと思ったが……確かめる術もない」

 半分語り掛けるように、半分自分に言い聞かせるように、柳はゆっくりと言葉を噛み締めた。

「魔法少女――一般人の俺には、全く及びのつかない世界だ」

 息を吐くと、マミがやけに遠く感じた。
 年の頃は変わらない。普通に学校に通っているのも知っている。だが、彼女は俺と決定的に何かが違う。「魔法少女」という肩書を持っているだけでなく、もっと奥底の、人間として大切な決定的な何かが――理由も根拠もなかった。しかし、普段は数字とデータを信奉する柳が、これだけは確信めいたような心地で、直感的に、ずっと胸に抱え持っていたのだ。
 戦いの運命に身を置く彼女が抱える傷を知りたいと思った。彼女は強固な殻で弱い自分を覆い隠している。まるで先程口にしたあのケーキのように繊細な心の持ち主だろうに、柳の前で決して弱い姿を見せた事は無かった。
 普段は水を打ったように平静な心が、ほんの少しだけ乱れた気がした。

「……まさかな」

 小さくかぶりを振って、心を否定した。

『――全く君は鋭い人間だね』

 ふと、そんな声が頭の中に反響したような気がしたが――それを確かめるより前に、マミが戻って来た。先程傷を負っていた部分には、小さな絆創膏が貼ってある。

「ごめんなさいね、お客さんを放りっぱなしにしちゃって」
「構わない。大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。ちょっと恥ずかしいから、あまり見ないでくれるかしら」
「大丈夫だ、間抜けだなどと思っていない」
「ちょっと、本当はそう思ってるんでしょ」
「思っていないと言っただろう。……巴」

 改めて名前を口にすると、マミは不思議そうにこちらを見る。

「お前にとって、全ての人間は救うべき対象になるか」
「何よいきなり。……それが私の使命だもの。当然よ」
「ならば、俺もその庇護対象か」
「当たり前でしょう。あなたは何があっても私が守るわ」
「……他の人間と同じように?」

 我ながららしくないと思った。底意地が悪いとも思った。
 マミは驚いたように目を瞠り、眉尻を下げる。答えに困ったようだった。優しげな色を宿す大きな瞳に戸惑いが浮かぶ。

「えっと、それってどういう……」
「……すまない、妙な事を言ってしまったな。気にしないでくれ」

 返答を待たず、柳は言葉を遮った。この押し問答で彼女の心を引き摺り出すのは無理だ。例え「守りたい」という使命感が雁字搦めに彼女自身を縛り付けていても、今の俺には何も出来はしない。柳はそう悟っていた。
 だが、せめて。

「――巴」
「……何?」
「……、…このケーキのレシピを教えて貰っても良いか。以前ケーキを持ち帰った時、姉さんがいたく気に入ってな。是非お前のレシピを知りたいと言っていた」
「あら、本当? いいわよ、喜んで。ちょっと待っていてくれるかしら、メモを持って来るから」

 嬉しげに顔を輝かせる彼女は、どう見ても年頃の女の子そのものだ。彼女の背をみながら、柳は先程呑み込んだ言葉をゆっくりと心の中で反芻する。

 ――お前が崩れそうなその時は、俺がお前を守りたい。

 そう口にするには、まだ心の距離がある。
 距離を測るメジャーがあれば、どんなにか良いだろう。やはり俺は、

「データではかれない物事が苦手らしい。まだまだだな」

 小さくつぶやいた言葉は静かな空気に溶けて、自分以外の誰にも届かず消えて行った。
 テーブル一枚、たかだか1メートルにも満たない距離が、こんなにも遠い。恋い焦がれる訳ではない。ただ、触れれば崩れてしまいそうな彼女を救いたいと思ったのだ。

「……まずは魔法少女について知る必要があるか」

 思案気に顎に指を添えた時、マミが戻って来るのが見えた。
 微かに唇に弧を描かせて出迎えると、彼女の笑みが更に深くなったような気がした。

 心の距離は、あと何センチだろうか。
 知るすべは、今はまだ無い。

柳さん×マミさんは落ち着くと思います。
2015.1